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【自分なりの勉強】

「かれこれ四十年ぐらい前かな、佐藤氏に三光園につれていってもらってね。初めて買ったのが、春日錦と他数本で三万ほど払ったんだね。私の給料が七千円ほどの時代だからね」

「そして、春日錦の子を取りこれを買ってもらってね。このときは、まさかおもとが売れるなんて思いもしないから嬉しくてね、今の私のやる気の基礎になってますよ」

「そんなこともあって、家内がお茶の店を出すって時に「春日園」と名前を付けて開店したことは、懐かしい思い出ですね」

─実生活動もこの頃からですか。

「そうだね、この頃三河では実生が盛んだったよ。私も、交配を始める事を思いたってね。千代田にすっか、縞羅紗にすっかと迷ったんだけど、当時、縞羅紗は三河が本場で、なにせ二代、三代のお棚があっから、これではもう太刀打ち出来ないと思ってね、それなら千代田系で行こうと決めたんだ」

【実生活動】

「もともと、おもと作りの動機が千代田の図だったし、これから自分が進む道も千代田系で何か不思議な縁を感じたね。東北は良い松谷系の実親があったし、この頃は、千代田系の実生家が少なかったことと、いわき市の夏は千代田の生えに適していたことが大きな要因でしたね」

─始められた頃の交配は?

「最初、千代田の縞甲とか、羅紗千代田を作ろうと考えてね。まず、松谷を雄として大車・大宝を雌、つぎに、晃明殿、四海波を雄として松谷に交配したね」

「翌年には、大車・大宝の交配から、黒い羅紗千代田が五〜六本生えたので、苔に包んで棚の脇に放置していたよ。すると、二歳で薄く斑が見えて喜んだんだ。でも後で解ったことだが、白く糊を引いていただけでね。これを、千代田斑と間違えたんですよ」

「千代田の血を入れると、縞も白味を帯びて覆輪も白くなるよね。千代田斑は遺伝すると思ったね。なんせ、誰も知らないことなもんで、今思うと本当に無知でしたよ」


【千代田斑を出すまで】

「晃明殿、四海波からは十二本ぐらい千代田斑の入った物が生えましたね。この中に縞甲型が数本ありました」

「それから色々と情報を集めて、福島県相馬に西山与兵衛さんと言う方が居られると聞き、すぐに飛んで行くと高価な三光の松や、その他のおもとがいっぱいあってね。庭には実親のF1、F2も沢山あった。三年ぐらい通っていたら、お婆さんに気に入られてね、実親を毎年数十本分けてもらったね」

「これらに松谷千代田を交配したら、千代田斑が来たもんだから、翌年は松谷千代田を西山口に交配したんだよね。この交配から玉松が生えたんだね」

【玉松誕生】

「この時は、天にも昇る気持ちでしたよ。一寸葉肉があるていどで、二〜三才まで誰も羅紗だと言わなかった。五才で羅紗らしくなってきて、七才で初めて芋切りをしたら、良い斑が出ました。これは倒してしまいましたが、八才九才の芋切りで三本に増えました」

「芋を切る迄の間に危篤状態が何回かありましたね。首元が赤くなってきてね。岐阜の故堀野さんに指導を受けて、二日に一度筆で首元を軽くこすって水洗いをした後、少し乾かし気味にしましたね。今でしたら、ダコニ―ルとかベンレイトを使うのですが…」

 熊谷さんは当時を懐かしむように、つぎつぎ苦労の体験を力を込めて話して下さいます。


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